第33回隊友ふれあいウォーキング実施報告  「文京の里に名園・名刹を訪ねる」


 「文京の里に名園・名刹を訪ねる」をテーマに、会員等22名(婦人3名、練馬・豊島会員11名)の参加を得て、11月28日(土)予定通り実施しました。
今回は、深山元都会長に加え直海現会長にも御参加頂きました。 
文京区は、第6回のふれあいウォーキングで、本郷・弥生町の史跡を訪ねましたが、今回は名園・名刹に焦点を絞りました。

 最初に訪ねた源覚寺は、人のこんにゃく(困厄)を食べると云う右目がつぶれた閻魔座像を安置し、俗にこんにゃく寺として親しまれています。
宝暦年間、眼を患ってお百度参りの祈願を果たした老婆に、閻魔が自分の右目をえぐって与えたところ、老婆は御礼にと好きなこんにゃくを絶って閻魔に供えました。
以後、眼病に御利益のある「こんにゃく閻魔」と、江戸中で評判なったと云われています。

 善光寺坂を登って行くと伝通院の手前に沢蔵司稲荷が在りますが、元和4年(1618)4月伝通院学寮主極山和尚の門を、沢蔵司と名乗る僧が浄土経を修学したいと訪ね入門しましたが、才識絶倫優秀で僅か3年余で浄土教の奥義を修得し、元和6年5月7日夜、方丈廓山和尚と学寮主極山和尚の夢枕に立ち「余は稲荷大明神なり、早く一社を建立し余を祀るべし」と言い残し暁の雲に隠れました。
その為、慈眼院が別当寺となり元和6年(1620)沢蔵司稲荷が建立されました。  
寺域に「一しぐれ礫や降って小石川」と言う芭蕉の句碑が建っていますが、芭蕉が延宝5年(1677)俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になる)した34歳の時の作で、この頃から4年間程、神田上水の工事に従事したとされています。

 伝通院は、室町初期の応永22年創建の浄土宗の名刹で、当初は寿経寺称していましたが、のち家康の生母、お大の方(法名伝通院)の菩提寺となり伝通院寿経寺と称するようになりました。
墓地には、お大の方の他2代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫の墓、幕末の志士清川八郎、小説家の佐藤春夫等の墓が在ります。

  
     源覚寺(こんにゃく閻魔)                 伝通院寿経寺                 お大の方の墓            

 小石川植物園は、5代将軍綱吉が上野館林藩主当時、白山御殿と呼ばれていた下屋敷跡で、綱吉が将軍になると薬草園となり更に、8代将軍吉宗により大岡越前守忠相が江戸町奉行に登用された享保7年、此処に小石川養生所が誕生しましたが、今も養生所の古井戸が残っています。

         
                  小石川植物園                           小石川植物園散策

 円乗寺は、室町末期天正年間開山の天台宗の古刹で、境内に「八百屋お七」の墓とお七地蔵が在りますが、「お七」は、本郷追分の八百屋の娘で天和2年近くの寺からの出火で、その寺に避難し、其処で寺小姓の「吉三郎」に恋をしました。
その後、家に戻った「お七」は、火事になれば「吉三郎」に又逢えるかと、つけ火をして捕えられ市中引き回しの上、鈴が森刑場で火あぶりの刑に処せられました。当時16歳でした。

 続いて訪ねた大円寺は、分福茶釜で知られる館林茂林寺住職が開山した曹洞宗の名刹で、火刑となった「お七」を供養する為に寄進された「お七」の身代り地蔵とされる焙烙地蔵が建っていますが、これは「お七」の罪業を救うため、熱した焙烙を頭に載せ自ら焦熱の苦しみを受ける姿とされています。 

         
               円乗寺「八百屋お七」の墓                        大円寺焙烙地蔵

 本郷通りに出て北に進むと天栄寺が在りますが、江戸初期元和2年、近在の農家が野菜を江戸市中に運ぶ途中、天栄寺の門前に在ったサイカチの木陰で休んだことが始まりで、此処で次第に野菜の取引が行われる様になり、土物店即ち野菜市場として発展しました。

 本郷通りを更に進むと、江戸五色不動の一つ目赤不動として知られる南谷寺が在りますが、江戸初期元和年間、万行和尚が伊勢国赤目山で黄金の不動明王を授かり近くの動坂に庵を結んだ事に始まる天台宗の古刹です。

         
                  駒込土物店跡                             南谷寺目赤不動
 
 本郷通りを更に進むと吉祥寺が在ります。
吉祥寺は、室町期の長録2年、太田道灌が江戸城を築城中、井戸の中から「吉祥」の金印が見つかり、城内に吉祥庵を建てて祀ったのに創まる曹洞宗の江戸四ヵ寺の一つです。
家康の江戸入府の翌年、江戸城外に移り、更に明暦の大火後、この地に移動しました。
境内には多くの大名家の墓の他、江戸後期の農政家二宮尊徳、幕末の幕府海軍奉行榎本武揚等の墓が在ります。
尚、門を入って暫く行くと左手に「お七・吉三」の比翼塚が在りますが、俳諧師井原西鶴が「好色五人女」の一人として「八百屋お七」をモデルにし、この吉祥寺を舞台として「恋草からげし八百屋物語」を書き上げたことによるものです。

 ところで、明暦の大火により、本郷本町(現在の水道橋駅近く)に在った曹洞宗諏訪山吉祥寺の門前町が焼失しました。
焼け出された門前町の住人達は、幕府の斡旋により現在の武蔵野市東部に移住し武蔵台地での新田開発を進めますが、移住民たちは吉祥寺に愛着を持ち、新田を吉祥寺と名付け今日の吉祥寺市が誕生しました。
一方、諏訪山吉祥寺は、明暦の大火では焼失を免れたものの、その後の火事で焼失し現在地(本郷駒込)に移動しました。

  
        諏訪山吉祥寺                  二宮尊徳の墓                    榎本武揚の墓

 駒込富士神社は、室町末期の天正2年、名主木村万右衛門が、駿河の富士浅間神社を勧請したのに創まる江戸の富士信仰の神社で、富士塚が在り「駒込は一富士二鷹三茄子」と古川柳にも詠まれ、「駒込のお富士さん」と親しまれたと云われます。
因みに鷹は、近くに在った幕府のお鷹匠同心屋敷、茄子は駒込がナスの産地だったことによるようです。

 今回の最終目標地である六義園は、5代将軍綱吉に仕え小姓から昇進して、甲府15万石の大名になった柳沢吉保の下屋敷で、拝領した元禄8年から数年かけて築庭した回遊式築山泉水庭園です。
六義園の名は、中国の詩の分類法(詩の六義)に倣った古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に、由来したものとされています。

         
                  富士神社                                  六義園             
 
 六義園に於いて約1時間散策後、小岩井農場が経営するレストラン「オリエント・カフェ」に於いて昼食会実施した後、解散しました。
次回は、3月末か4月初めの桜の時期に都内のコースを予定しています。
会員及び会員家族・知人等皆様の参加を歓迎します。

                                    平成27年12月28日
                                    武蔵野の史跡を巡る会    世話人   道面 康紀

       第32回「隊友ふれあいウォーキング」 
                  ★9月26日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 

       第31回「隊友ふれあいウォーキング」 
                  ★6月28日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 


       第30回「隊友ふれあいウォーキング」 
                  ★4月4日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 


       第29回「隊友ふれあいウォーキング」 
 
                 ★12月7日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 

       第28回「隊友ふれあいウォーキング」 
 
                 ★9月20日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 

       第27回「隊友ふれあいウォーキング」
 
 
                 ★5月29日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 

       第26回「隊友ふれあいウォーキング」
 
 
                 ★3月29日、開催されました。
                   実施状況についてお知らせします。 


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