第37回隊友ふれあいウォーキング実施報告  

 「落合からおとめ山公園を経て西池袋へ」をテーマに、会員15名(夫婦1組、女性4名)参加を得て、12月3日(土)予定通り実施しました。今回は、当初25名の申し込みが有りましたが、風邪等により欠席者が続出し最終的に15名となりました。

 9時、大江戸線「中井駅」を出発、初冬の穏やかな陽射しを浴びながら、先ずは「染の里二葉苑」に向い、染工房を見学しました。
 落合は、神田川と妙正寺川が落ち合う所と言う名の通り、嘗ては、水量豊かで澄んだ水が流れる里であったので、染職人達が多く移り住むようになり、蒸気で布の皺を伸ばす「湯のし屋」や染物を扱う商人達が集まり、産地としての「染の里」が形成されました。
 昭和30年代まで、川沿いに300軒を超す染色関連業者が集まり京都・金沢と並ぶ三大産地でした。
現在も、落合・中野には、染工房が点在しています。

 次に、向った落合秋艸堂跡(會津八一旧居跡)には、現在は何も残っておらず説明書が在るのみですが、此処は仮名書きによる独特の歌で知られる秋艸道人と号した歌人會津八一が、大正3年から昭和20年に家が戦災で焼失する迄を過ごした処です。
 早稲田大学で、東洋・日本美術史を講義しながら代表作「南京新唱」を執筆しました(南京とは、古都奈良のこと)。戦後は、新潟に移り、昭和31年に76歳で亡くなりました。

 佐伯祐三アトリエ記念館は、佐伯祐三が大正9年(1920)に銀座の象牙商の娘米子と結婚し、同12年にパリに移るまでの新婚生活を過ごした旧居跡で、当時未だ武蔵野の面影を残す田園風景を描いた「下落合風景」は、3年後に一時帰国した時、このアトリエで描かれました。
佐伯祐三は、昭和3年、31歳の若さでパリに没しましたが、その後米子夫人は昭和47年に亡くなるまでの間、下落合のこの地に住み、自ら画家としても活動しました。

   

            佐伯祐三アトリエ記念館                            佐伯祐三アトリエ

 アトリエから通りに出た処に聖母病院が有りますが、此処は昭和6年に「マリアの宣教者フランシスコ修道会」が設立した国際聖母病院で、先の大戦中には多くの外国人宣教師が病院内に避難し、戦後は米軍機により援助物資が落とされました。
 昭和41年、下落合で宅地造成の際に奈良時代の横穴式古墳群が発見され、3其の横穴墓から2体の人骨と一振りの直刀が出土しました。
これ等の資料は、新宿歴史博物館及び目白大学ミニ博物館に展示されています。

 次に向った薬王院は、鎌倉時代の創建とも伝わる真言宗の古刹であり、奈良長谷寺の末寺で、東長谷寺とも言われています。
長谷寺は、牡丹の花の名所で有名ですが、此処も牡丹の名所として知られ、「中空に日のとどまれる牡丹かな」と詠んだ大正・昭和の俳人・富安風生の句碑が建っています。

   

                薬王院山門                                   薬王院境内

 おとめ山公園は、旧陸奥中村藩相馬家の台地斜面を利用した池和泉回遊式庭園跡で、楢・橡等の広葉落葉樹が生い茂り武蔵野の面影を良く残しています。
又、夏は蛍が飛び交いますが、「江戸名所図会」にも、此処落合は蛍の名所として描かれています。
江戸時代、此処一帯は、将軍家のお鷹場で、立ち入りを禁じたので「御留山」と呼ばれています。

 おとめ山を下り向いの丘に上ると、日立目白クラブが在りますが、この建物は昭和3年に建てられた学習院寄宿舎で、今は東京都の歴史的建造物にもなっています。
 玄関の正面の通りに古木が立っていますが、かつて近衛侯爵邸が在った処で玄関前の馬車回しに繁っていた欅が保存されている訳です。
大正年間、近衛篤麿・文麿はこの地で過ごしました。 
今回幸いにも、ゲストの昼食会迄に時間の余裕が有り、支配人に建物の中を案内して頂き、設計者・権藤要吉の邸宅観から生まれた、アール・デコ様式の空間を見学することが出来ました。

   

             日立目白クラブ会議室                          日立目白クラブパーティ会場

 豪壮なマンションが立ち並ぶ近衛通りから西に折れ路地を入って行くと、中村彜アトリエ記念館が在ります。
重要文化財「エロシェンコ氏の像」等数々の名画を残し37歳の若さで亡くなった洋画家・中村彜は、大正5年(1916)に、此処にアトリエを構え創作活動を行いました。
現在は、増改築を経たアトリエを建築当初の姿に復元して、一般公開し彼の生涯や画業を紹介しています。

 目白庭園の手前に、赤い鳥社・鈴木三重吉旧居跡が在りますが、ただの説明文のみで建物等は有りません。
鈴木三重吉は、夏目漱石の門下生で情緒的な短編小説「千鳥」で文壇に登場し、「湖水の女」「桑の実」等を発表しました。
児童雑誌「赤い鳥」は、大正7年此処で創刊され、昭和11年まで続きましたが、雑誌には三重吉他、芥川龍之介、菊池寛等が童話を、北原白秋、西条八十、三木露風等が童謡を載せています。
 目白庭園は、池を配した回遊式和風庭園で、長屋門や築地塀の内に数寄屋造りの茶室「赤鳥庵」が在ります。
池を一回りした後、最後の見学場所の立教大学に向いました。

   

             中村彜アトリエ記念館                               目白庭園

 立教大学等を含む立教学院の源流となる「立教学校」は、明治47年(1874)米国聖公会宣教師ウィリアム主教により、聖書と英学を教えるため築地に造られました。
その後、明治16年立教大学校と改称、米国のカレッジに倣った高い専門教育を目指し授業は、英語で行われました。
その後、幾多の変遷を経て明治40年(1907)専門学校令による立教大学を開校、大正7年(1918)池袋に移転、大正11年(1922)大学令による大学として正式に認可され現在に至っています。

   

            立教大学本館(モリス館)                              本館をバックに

 キャンパス内の鈴懸けの並木通りに「鈴懸の径」の碑が在りますが、「鈴懸の径」は此処をモデルとして、佐伯孝夫作詞、灰田有紀彦作曲、弟灰田勝彦が歌唱し、昭和17年ビクターレコードを発売しましたが、戦時中にも拘らず戦時色の感じられない曲がヒットしました。
 「鈴懸の径」の碑について説明の後、キャンパス内にあるレストラン「日比谷松本楼」に於いて会食後、解散しました。
 次回については、時期・場所ともに未定ですが、桜の時期に23区内を予定しています。


                                          平成28年12月31日

                                          武蔵野の史跡を巡る会 世話人  道面 康紀

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