第41回隊友ふれあいウォーキング実施報告  

 予定を1週間延期し、4月14日(土)10名の参加を得て実施しました。当日は、曇り空ながらも風もなく穏やかで歩くには良い天気でした。

 今回のテーマは、「源頼朝の武蔵入国の地を探る」でした。
下総国で千葉常胤、上総広常等源氏に旧恩ある武将の勢力を糾合した源頼朝が、武蔵の国に入るため隅田川の何処を渡河したのか、又頼朝の入国を阻もうとした江戸太郎重長が拠点とし、その後も歴史上にしばしば登場する石浜城は何処に在ったのかを現地を歩いて確認する事でした。

 9時に浅草駅を出発し吾妻橋を渡り墨田区役所南広場に於いて、古代・中世の隅田河が、どの様に流れていたかを説明しましたが、偶々この後に訪ねた「すみだ郷土文化資料館」において、特集展示「すみだの寺社と源頼朝」を実施しており、今回のテーマに大いに参考になりました。

 一通りの説明後、墨田公園に向いましたが、現在の日本庭園を含む一帯が水戸徳川家下屋敷跡で、公園内には、「水戸徳川家旧阯」と刻んだ石柱と藤田東湖の「正気之歌」詩碑があります。
藤田東湖は、幕末の水戸藩の国学者で、藩主徳川斉昭の信任を受け幕政に参与しましたが、斉昭が幕府に謹慎を命ぜられると、東湖は一時この下屋敷に幽閉されました。
庭園の外れに在る牛嶋神社は、貞観年間(859~877)の創建と伝えられる古社で、以前は墨堤沿いに在ったと云われています。
牛嶋神社近くに住んでいた葛飾北斎は、「須左之男尊厄神退治之図」を描き奉納しましたが、関東大震災で焼失し、現在、復元パネルが社殿に飾られており、今でもその図様を見る事が出来ます。 

  
       藤田東湖「正気之歌」碑                     牛嶋神社

 牛嶋神社に参拝後、すみだ郷土資料館に向い特集展示「すみだの寺社と源頼朝」を研修しました。
江戸の景観は、天正18年(1590)徳川家康の江戸入府を契機に大きく変わり、特に日比谷入江の埋め立てにより江戸城下が拡大し、大規模な治水・開発を経て、江戸は百万都市になって行きます。
しかし、開発以前の中世すみだの風景は、江戸湾と河川が入り組み、砂州の点在する低湿地帯で、このような地理的環境は、河川や水を巡る様々な伝説を生みだし、それは現在では、名所旧跡として受継がれています。

 資料館見学の後、言問橋を渡り隅田川西岸の待乳山聖天(まつちやましょうでん)へ。
言問橋は、伊勢物語第9段東下りに見える在原業平の詠んだ「名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」に由来しますが、実際に詠んだ場所としては、今も「橋場」の地名で残る上流の「橋場の渡し」が在った処とされています。

 待乳山聖天は、石浜神社とともに石浜城の所在地に比定されていますが、ここは周辺で一番標高が高く、城の立地としては、こちらの方がよりふさわしいと言えます。
江戸太郎重長は、ここを拠点として、同族の畠山重忠、川越頼重等の加勢を得て、頼朝の隅田川渡河を阻んだと考えるのが妥当と思われます。

 待乳山聖天の北西隣にある今戸神社は、康平6年(1063)源頼義・義家親子が奥州征伐の折、浅草今の津(現今戸)に、京都石清水八幡宮を勧請したのが創建と云われています。
義家は、永保元年(1081)謀反を起こした清原武衝・家衝征伐に向う途中にも再び、今の津(今戸)神社に立ち寄り戦勝を祈願したと伝えられています。

  
         待乳山聖天                         今戸神社

 今戸神社に参拝後、桜橋を渡り長命寺を訪ねました。
この寺は、鷹狩に出た3代将軍徳川家光が、腹痛を起こした時、この寺の井戸水で薬を服用したところ、たちまち痛みが止んだ事から長命寺の寺号を賜ったと云われています。

 長命寺の側に、1717年創業時から続く「長命寺桜もち」の店が在りますが、明治の一時期、この2階に正岡子規が3カ月ほど仮寓していたと云われています。

 長命寺の北の通りに「墨亭植桜の碑」が在りますが、墨亭の桜は、享保2年8代将軍吉宗による植樹がその始まりで、明治20年の建立の碑には、その由来が書かれています。
尚、そのてん刻は榎本武揚の書によるとされています。

 
          桜橋                  正岡子規仮寓の地(長命寺桜餅山本や2階)

 石浜神社は、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日勅願に因り鎮座し、文治5年(1189)には源頼朝が奥州藤原氏攻めに際して、社殿を寄進したとの記録が有ります。
特に千葉氏、宇都宮氏等関東の武将の信仰が厚く、関八州から多くの参詣者を集めたとのことです。

 神社前は公園になっており其処に石浜城祉と書かれていますが、嵩上げされた堤防の高さを考慮しても神社付近一帯は、平坦な地形で城を築けるような地形では有りません。
最も当時と河の流れや地形は大幅に変わっていることと思いますが、それでもなお城跡としては疑問の残る地形です。

 石浜神社参拝の後、西岸に戻り東白鬚公園内を通り隅田川神社に向いました。
公園内にはテニスコート、少年野球場等の運動施設が有りますが、ここは東京都の広域防災拠点に指定されており、各種防災施設及び避難拠点としての施設が整備されています。
隅田川神社は、嘗ては水神社と呼ばれた隅田川の総鎮守で、現在の神社は防波堤工事により旧地から約100m南に移されています。
社殿前には狛犬の代わりに石亀が置かれ、境内に隅田川八景の碑が建てられていますが、今は、直ぐ後ろを高速道路が走っており、昔の面影は見当たりません。
尚、社殿は隅田川を無事渡河出来た頼朝が、水神に感謝して造営したと云われています。

 この地域は、嘗て下総の国府市川から武蔵野国府中に至る古代東海道の墨田宿が在ったとされる地域で、宿場は隅田川を挟み両岸に在ったと云われております。

  
          石浜神社                        隅田川神社

 直ぐ隣に在る木母寺は、元は都営住宅地域に在る梅若公園一帯に在りましたが、都営住宅建設に伴い現在の位置に移され、榎本武揚の銅像のみ、元の場所に在ります。

 木母寺は、中世の「梅若伝説」縁の寺で開基は古く平安の中期の貞元2年(977)開山は忠円阿砂利と伝えられています。
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲等により広く知られている旧跡です。

 平安中期、吉田少将惟房の子「梅若丸」は、5歳にして父を喪い7歳の時、比叡山に登り修学中たまたま山僧の争いに遇い、大津に逃れましたが、信夫藤太という人買いに欺かれ関東に下る途中病になり、隅田川のほとりで「尋ね来て問はば応へよ都鳥墨田河原の露と消えぬと」の一首を残し、12歳でこの世を去りました。 
この時、たまたま来合わせた天台宗の高僧忠円阿闍梨が、里人と共に一堆の塚を築き、柳一株を植えて供養したと云われています。

 都営住宅団地を通り抜け梅若公園を経て「鐘ヶ淵」駅に向い、東武伊勢崎線に乗り「東京スカイツリー駅」下車、「こだわりとんかつ かつき亭」に於いて、昼会食後、解散しました。
 
平成30年5月10日 

武蔵野の史跡を巡る会   世話人  道面 康紀

第40回(平成29年11月) 「武蔵野の面影を求めて羽根木から駒場野へ」

第39回(平成29年10月) 「石神井川沿いに史跡を訪ねる」

第38回(平成29年5月)  「練馬十一ヵ寺から愛染院を経て光ヶ丘公園へ」

第37回(平成28年12月) 「落合からおとめ山公園を経て西池袋へ」

第36回(平成28年10月) 「渋谷川に沿う台地上を歩く(広尾から金王八幡を経て表参道へ)

第35回(平成28年7月)  「武蔵野の面影を求めて(和田堀廟所から烏山念仏堂へ)」

第34回(平成28年4月)  「文京の台地(小日向台、目白台)に史跡と庭園を訪ねる」

第33回(平成27年12月) 「文京の里に名園・名刹を訪ねる」

第32回(平成27年10月) 「八王子市に千人同心の史跡を訪ねる」へリンク

第31回(平成27年7月)  「再び豊嶋氏の石神井城を訪ねる」へリンク