第43回隊友ふれあいウォーキング実施報告  

 第43回ふれあいウォーキングは、「万葉の昔を偲びつつ狛江の里を歩く」をテーマに9月29日(土)実施の予定でしたが、天候不良により10月20日(土)に延期して実施しました。

 今回歩いた狛江の地は、亀塚古墳を中心として「狛江百塚」と云われるほど、五、六世紀の古墳が多い所であり、また七世紀の飛鳥時代の頃から渡来、帰化した高い文化と技術を持つ朝鮮半島の高句麗・百済からの渡来人文化が栄え、その渡来人は高麗人と呼ばれた。狛江の狛は高麗が転訛したものであり、江は古多摩川が湾曲して入江の様になっていた当時の地形に由来すると云う。

 9時、狛江駅を出発し、泉龍寺へ。ここは、奈良時代に東大寺の建立に尽した良弁僧上の草創と伝わる曹洞宗の禅刹で境内には珍しい二層の鐘楼と一夜地蔵として知られる伝説の子育地蔵が有ります。「新編武蔵風土記稿」によれば、その昔、地蔵は夜ごと信者の家を巡って、二十三日の夜だけ寺に戻って来たと云う。「一夜地蔵」の名前の由来である。現在、地蔵は本堂内に納められており残念ながら拝観する事が出来ませんでした。

 墓地には慶安4年の由比正雪の乱で、丸橋忠弥を捕えた北町奉行石谷貞清(いしがやさだきよ)の墓が有りますが、旗本石谷家は、江戸時代に大名の井伊家、旗本の松下家とともに狛江に所領を有していました。

 本堂の南に泉龍寺の歴史資料館が在り、時間外にも拘らず館長自ら泉龍寺の歴史に係る各種資料について詳しく説明して頂きました。
 泉龍寺の側に弁財天池が在りますが、その昔は泉龍寺の寺域で在った処で、ここ和泉の名の起こりともなった湧水池。奈良時代の旱魃の時、泉龍寺の開山僧良弁の雨乞いの祈願により水が湧き出たと云う伝説の池で、水の神弁財天を祀るので弁財天池と呼ばれています。又、ここには弁財天遺跡が在り、縄文時代中・後期の集落跡や、奈良・平安時代の住居跡が発見されています。

  
         泉龍寺本堂                     二層の鐘楼

 次の亀塚古墳に向う途中、「ペリー来航記念樹」を見学しました。この樹は幕末、浦賀に来航して日米和親条約を締結したペリーが幕府に贈ったもので、ラクウショウ(落羽松)と呼ぶ中央アメリカ西海岸地方に多く見られる杉科に属する針葉落葉樹。ときの大老井伊直弼の祐筆を務めていたこの地の名主、石井伝左衛門にも与えられ、記念樹として屋敷内に植樹したものと云われていますが、今は30mを超える巨木なり住宅に囲まれた一角に聳えています。

  亀塚古墳は、渡来人の高麗文化を伝える「狛江百塚」と呼ぶ狛江古墳群の中の今に残る代表的な古墳の一つ。ここで云う塚とは古墳の事で、五世紀から六世紀の飛鳥時代のものと推定されているが、百塚とは言え塚の形を留めているのは僅か十一基に過ぎないと云う。亀塚は、帆立貝式前方後円墳で、古代国家高句麗の壁画に似た文様を持つ毛彫金具の副葬品等が出土しています。
次の兜塚古墳に向う途中、狛江市立古民家園「むいから民家園」に立ち寄り休憩しました。此処には、安政6年(1859)に名主の邸宅に建てられた旧高木家長屋門と18世紀末頃建てられた農業兼村方医師の旧荒井家住宅主屋が在ります。

               
                        亀塚古墳碑            

  
          旧高木家長屋門                   旧荒井家住宅主屋

  兜塚古墳は、良好な状態で遺存している貴重な古墳で、昭和62年と平成7年の調査により墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳で、出土した土師器や円筒埴輪の年代から6世紀前半の築造と考えられ亀塚古墳の次世代の盟主古墳と考えられています。

  
         兜塚古墳碑                       兜塚古墳墳丘

 兜塚古墳見学の後、多摩川に出て六郷用水取水口を訪ねました。今は、往時の名残は何も有りませんが、此処は、多摩川下流域の六郷に灌漑用水を供給した六郷用水路取水口が在った処で、全長20キロに及ぶ開削工事は、家康入府の7年後、慶長2年に始まり15年後に完成。工事を担当したのが代官小泉次太夫であったので次太夫堀とも云われています。

 取水口から万葉通りを少し入った処に「万葉歌碑」が在ります。万葉集巻14の東歌の一首が刻まれた歌碑で、松平定信が染筆した書を彫刻したものが、文化2年(1805)に多摩川沿いに建てられましたが、文政12年(1829)の洪水により流失しました。今の碑は、大正13年(1924)狛江村の有志が奔走し、渋沢栄一を始めとする財界人から多額の寄付と協力を得て、旧名主石井家に残されていた拓本を模写して再建されたものです。

 多摩川堤に戻り、秋の爽やかな風を感じながら暫しの間、堤を歩き下布田遺跡へと向いました。
 国指定史跡の下布田(しもふだ)遺跡は、多摩川に面した調布市域の南部に位置し、縄文時代と古墳・奈良・平安時代から中近世にわたる複合遺跡で、多摩川中流域左岸に発達した立川段丘(武蔵野台地の一部)から沖積低地にかけて立地し、昭和39年から平成20年に亘り数々の学術調査が行われて来ましたが、特に下布田遺跡が立地する立川段丘縁辺からは、縄文時代晩期の遺構・遺物が出土して広く知られるようになりました。これ等の中には、日常生活に係る遺物だけでなく、国指定の重要文化財の土製耳飾りを始め、土偶・土版、独錮石、石剣、石刀、石冠等晩期に特有な呪術的遺物とともに、石棒祭祀の存在を示す「特殊遺構」や有力者の埋葬施設と考えられる遺構や墓等が出土しています。

 遺跡に在る郷土博物館分室は、普段は開館しておりませんが、事前にお願いして特別に見学させて頂きました。多忙な中、学芸員の十時さんが、我々の質問に丁寧に説明して頂きました。

  
        晩期縄文土器の一部                十時さん(後列右)と記念撮影

 ウォーキングの最後に向った郷土博物館は、1階の企画展・収蔵品展と2階の常設展が在りますが、常設展では、調布の原始・古代から現代まで移り変わりを「調布の歴史」と題して、考古・民俗・歴史資料等を展示しています。下布田遺跡出土品も数多く展示されていました。

 博物館見学後、京王相模原線「京王多摩川駅」に向い、駅近くのレストラン「馬車道」で会食後、解散しました。次回のウォーキングは、3月の中・下旬を予定していますが、現在検討中です。
 
平成30年11月5日

武蔵野の史跡を巡る会   世話人  道面 康紀

第42回(平成30年6月)  「野川・丸子川沿いの史跡を訪ねる」

第41回(平成30年4月)  「源頼朝の武蔵入国の地を探る」

第40回(平成29年11月) 「武蔵野の面影を求めて羽根木から駒場野へ」

第39回(平成29年10月) 「石神井川沿いに史跡を訪ねる」

第38回(平成29年5月)  「練馬十一ヵ寺から愛染院を経て光ヶ丘公園へ」

第37回(平成28年12月) 「落合からおとめ山公園を経て西池袋へ」

第36回(平成28年10月) 「渋谷川に沿う台地上を歩く(広尾から金王八幡を経て表参道へ)

第35回(平成28年7月)  「武蔵野の面影を求めて(和田堀廟所から烏山念仏堂へ)」

第34回(平成28年4月)  「文京の台地(小日向台、目白台)に史跡と庭園を訪ねる」

第33回(平成27年12月) 「文京の里に名園・名刹を訪ねる」

第32回(平成27年10月) 「八王子市に千人同心の史跡を訪ねる」へリンク

第31回(平成27年7月)  「再び豊嶋氏の石神井城を訪ねる」へリンク