第45回隊友ふれあいウォーキング実施報告  

 9月28日(土)会員、会員家族・友人等13名(夫婦4組、女性6名)の参加を得て、予定通り実施しました。
今回の川越は、藏造りの町並みの他、古代から中世、近代の川越の歴史を訪ね歩くもので5月実施予定でしたが、気象状況により9月に延期した次第です。
8時50分、川越駅に集合、駅の観光案内図により、歩くコースを説明した後、先ずは、地元で母塚、父塚と愛称されている浅間神社古墳、愛宕神社古墳を訪ねました。何れも径が30~40m、高さ5~6mの円墳で、墳頂部が平坦に削られ神社が祀られています。

  
       浅間神社古墳(母塚)(6C中頃 )         愛宕神社古墳(父塚)(6C中頃)

 愛宕神社古墳の裾を裏に廻り、国道16号線をくぐったトンネルの出口右側の急な石段を登り氷川神社の境内に出ると、境内の西端に氷川神社古墳が在りますが、高さ約2m、径約15mの土盛となっており、予め古墳存在の認識がないと見過ごすかも知れません。
 氷川神社から国道16号線に下り、国道沿いに進むと、左手の小高い台地上に天台宗の川越観音長德寺が有りますが、この台地一帯は、中世の豪族・仙波氏の館跡で、境内には、もと土塁が在ったと云われています。
館は、仙波台地の東端に在り、荒川低地を一望出来ることから居館の立地としては最適に場所と言えます。

  
         氷川神社古墳                      仙波氏館跡

 次に向った三変稲荷神社古墳は、1962年に地元の学生により鼉龍鏡と碧玉製の石釧が採集され、埼玉県内でも最古級の古墳として注目され、その後、1985年に県史編纂室により周溝の発掘調査が行われた結果、一辺が約22mの方墳で、墳丘に壺形土器が巡らされている事が明らかとなり、土器の年代と鏡、石釧の年代が一致することから4C末から5C初頭の古墳である事が判明しました。

 古墳を後に、仙波台地を巡る道路に下りて左折して進むと、左手に小さな広場が在り、市史跡の小仙波貝塚跡が在ります。
小仙波貝塚は、昭和初期の道路建設により貝層の殆どが破壊されましたが、現存する一部からヤマトシジミ、カキ、ハマグリ等の貝類の殻が出土していることから、縄文時代前期初頭の縄文海進最大期に荒川低地の最奥に形成された貝塚とされています。
尚、仙波台地には、今から約6000年前の縄文時代前期以降、弥生、古墳、奈良、平安時代と継続して集落が営まれています。

  
        三変稲荷神社古墳                    小仙波貝塚跡

 小仙波貝塚跡の北側の道を西に進むと川越大師の名で知られる星野山喜多院の山門に出ますが、この山門の前の道路の北側に国の重要文化財指定の日枝神社が在ります。
ここに日枝神社が祀られたのは、喜多院の草創期に比叡山坂本の日吉山王社を勧請したものと云われています。

 この日枝神社の西側の道路のわきが、小高い盛土になっていますが、ここが多宝塔古墳又は、仙波日枝神社古墳と呼ばれる前方後円墳で、1638年に喜多院の多宝塔再建工事の際に、直刀、菅玉、ガラス小玉等が発見されました。
これ等の副葬品は、翌年に埋葬されましたが、1925年の新道開削工事の際に再発見され、現在は、喜多院が所蔵しています。

  
         日枝神社                      仙波日枝神社古墳 

 喜多院は、関東天台宗の総本山で、淳和天皇の詔で830年に慈覚大師により創建されたと伝えられています。
1638年の大火で山門を残して、他の堂塔は全て焼失しましたが、三代将軍徳川家光が援助し、江戸城紅葉山の別殿を移築して再興しました。 国指定の重要文化財である客殿、書院、庫裡がそれです。
 又、此処には、1645年に天海僧正の御影堂として建てられた慈眼堂や鐘楼門を始めとして絵画や工芸品等多くの国指定の重要文化財が在りますが、慈眼堂の建っている場所は、前方後円墳と云われ、その名も慈眼堂古墳と呼ばれています。

  
       喜多院本堂                       慈眼堂古墳(慈眼堂)

 次に向った川越城本丸御殿は、川越藩が最大の領地を有していた当時、1848年に完成したもので、全部で16棟、建坪1025坪の規模を持っていましたが、明治維新後に解体されて、現在の玄関と大広間の部分だけが残ったものです。
 本丸御殿の隣にある三芳野神社は、平安時代初期の創立と伝えられ、旧川越城内の天神曲輪に鎮座していたことから「お城の天神様」として親しまれています。
 この天神様に御参りするには、川越城の南大手門から城内を複雑に歩かなければならなかったことから、童謡「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地となったと云われています。

  
       川越城本丸御殿玄関                童謡「通りゃんせ」歌詞発祥の地

 本丸御殿の北100mに土蔵風の重厚な建物が在りますが、これは二の丸跡に建てられた市立博物館です。常設展では、原始・古代から近現代に至る歴史が学べますが、今回は時間の都合上見学しませんでした。

 次に向った稲荷山称名院東明寺は時宗の寺で、嘗ては東明寺村、寺井三カ村、寺山村等に及ぶ寺領を有し境内も広大で、惣門が現在の喜多町の中ほどに在ったと伝えられ、喜多町の古名が東明寺門前町と称されていたと云われています。

 1546年(天文15)4月、川越城を包囲していた8万余騎の山内・扇谷両上杉と古河公方足利晴氏の連合軍を、僅か8千余騎の北条氏康が夜襲攻撃で打ち破った戦いは、川越夜戦或は、東明寺口合戦と云われるように、この地の要路である松山街道を含む東明寺領と境内で争われたもので、東明寺境内に在った塚からは、ずっと後年まで、おびただしい数の髑髏が掘りだされたと伝えられています。
 東明寺の参道を経てバス通りに出ると、ここから藏造りの町並みとして、今や年間400万人の観光客が訪れるという重要伝統的建造物群保存地区の中心の通りになります。

 藏造りの町並みは、町の約4割に当る1、301戸を焼失した1893年(明治26)の川越大火の教訓から生れました。
この時に焼け野原に残った土蔵が耐火性に優れている事を知った川越商人は、復興に当り当時欧米から導入され流行していた耐火建築の煉瓦造りではなく土蔵造り選びました。
 その為、川越の藏造りの町並みは、江戸の景観を残していると云われていますが、それは江戸の土蔵造りの様式を採用したからであって、建物の多くは明治の川越大火以降のものと云われています。
 明治の大火でも焼失しなかった大沢家住宅(1792年建築)を始めとする藏造りの家が、今では和菓子屋やお土産店、資料館等に活用されている他、400年前から城下町に時を報せた「時の鐘」は、現在4代目と云われ、今も午前6時、正午、午後3時、午後6時の4回、市民に時を報せています。

  
        東明寺境内「川越夜戦の碑」              時の鐘

 藏造りの町並みを後に、引き続き中央通り(昭和の町)を進み、食事処「小江戸藏里」に於いて昼食会を実施した後、解散しました。
 次回のウォーキングは、12月初旬を予定していますが、コースは現在検討中です。

令和元年10月16日            

武蔵野の史跡を巡る会   世話人  道面 康紀

第44回(平成31年3月)  「黒目川の遺跡を訪ねる」

第43回(平成30年10月) 「万葉の昔を偲びつつ狛江の里を歩く」

第42回(平成30年6月)  「野川・丸子川沿いの史跡を訪ねる」

第41回(平成30年4月)  「源頼朝の武蔵入国の地を探る」

第40回(平成29年11月) 「武蔵野の面影を求めて羽根木から駒場野へ」

第39回(平成29年10月) 「石神井川沿いに史跡を訪ねる」

第38回(平成29年5月)  「練馬十一ヵ寺から愛染院を経て光ヶ丘公園へ」

第37回(平成28年12月) 「落合からおとめ山公園を経て西池袋へ」

第36回(平成28年10月) 「渋谷川に沿う台地上を歩く(広尾から金王八幡を経て表参道へ)

第35回(平成28年7月)  「武蔵野の面影を求めて(和田堀廟所から烏山念仏堂へ)」

第34回(平成28年4月)  「文京の台地(小日向台、目白台)に史跡と庭園を訪ねる」

第33回(平成27年12月) 「文京の里に名園・名刹を訪ねる」

第32回(平成27年10月) 「八王子市に千人同心の史跡を訪ねる」へリンク

第31回(平成27年7月)  「再び豊嶋氏の石神井城を訪ねる」へリンク